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東シベリア沖の探検

17世紀、ポモールに代わってコサックが、毛皮を求め内陸水路を伝って東シベリアへ進出した、彼らはレナ川・ヤナ川・インディギルカ川・コルィマ川など大河を下って北極海の河口に至りそこから帆船(氷の多い北極海の航行に適した断面や形状をした「koch」と呼ばれるもの)で別の大河の河口へ航海するという探検を繰り返している。1648年にはセミョン・デジニョフとフェドット・アレクシーヴがコルィマ川河口から東へチュクチ海を進み、チュクチ半島を回って太平洋側のアナディリ川河口へと往復した。これはアジアとアメリカの間が陸続きでないことを証明する発見であったが、この功績は長年忘れられたままとなる。

18世紀には毛皮を求める冒険商人に加え、地理学・地図学探検を目的とした学者や軍人による北極海探検が始まった。1720年代にはピョートル大帝が命令した「カムチャツカ探検」(大北方探検)と呼ばれる大きな探検計画が始まった。デジニョフの航海から80年後の1725年から1730年にかけて、デンマーク生まれのロシア海軍軍人ヴィトゥス・ベーリングが聖ガヴリール号(Sviatoy Gavriil)でデジニョフとは逆向きに東から西へ航海を行った。彼はシベリアを横断しオホーツク海を渡ってカムチャツカ半島に着き、ここで聖ガヴリール号を建造した後、1728年夏に北へ出航してチュクチ海に至り、アジアとアメリカの間に海峡があることを確認した。この海峡は彼の名を採ってベーリング海峡と呼ばれるようになった。またデジニョフが確認していた海峡中央部の島もベーリングが再発見し、ダイオミード諸島と名づけた。
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第2回カムチャツカ探検は1733年から1743年にかけて行われた。ベーリングと副官アレクセイ・チリコフは聖ピョートル号と聖パーヴェル号の二隻でアメリカ大陸を目指した。二隻は嵐ではぐれ別行動をとり、聖ピョートル号のベーリングたちは最初にアラスカ海岸を視認したヨーロッパ人となり、聖パーヴェル号のチリコフたちは最初にアラスカに上陸したヨーロッパ人となった。チリコフはロシアに帰還したが、ベーリングは途中で病没した。

ベーリングとチリコフとは別に、第2回カムチャツカ探検には他のロシア海軍軍人も参加した。セミョン・チェリュスキンらは陸路でタイミル半島の海岸を調査し、1742年5月、タイミル半島の最北端の岬に到達した。この岬がユーラシア大陸の最北端で、北東航路の最北端でもあった。彼は北東岬と名付けたが、現在はチェリュスキン岬と呼ばれている。

1764年にはロシアの大科学者ミハイル・ロモノーソフが北東航路探検を計画し、ワシリー・チチャゴフが3隻の艦隊でアルハンゲリスクを出航したが航路発見はならなかった。1785年から1795年にかけて、エカチェリーナ2世の命令で英国海軍軍人ジョセフ・ビリングス(Joseph Billings)とロシア海軍軍人ガヴリール・サリチェフ(Gavril Sarychev)がオホーツク海側から北東航路を探検し東シベリア・アラスカ・アリューシャン列島の詳細な海図を作成した。1820年代にはフェルディナント・フォン・ウランゲル、ピョートル・フョードロヴィチ・アンジュー(Piotr Fyodorovich Anjou)、フョードル・ペトローヴィチ・リトケ(Fyodor Petrovich Litke)らが東シベリア沿岸を調査し、1830年代にも調査活動が行われた。

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2009年06月01日 14:06に投稿されたエントリーのページです。

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